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2009-12-28

一昨日の公開講座。

廣瀬純氏による連続公開講座GARDEN現代思想講座第3回は最終回。
ドゥルーズ、ガダリによる『アンチ・オイディプス』再入門を大枠とし、結果としては予告にあったビル・エヴァンス、クリント・イーストウッドの話はあまり出ず、セロニアス・モンクの話はそれなりに、ゴダールの話はかなり出た。
最終回はゴダールの「アウア・ミュージック」をあらかじめ観てから、ということだったのだが、先夜の忘年会の疲労で寝坊し、映画はおさぼり。
最終回はユダヤ人倫理学者でもあったレヴィナスが、映画とは相手を正面から撮ることが大事であると主張したことから始まる。ここからは廣瀬さんの解釈を私なりに解釈した内容。哲学はプラトン、ハイデガーなどを中心に個々の人間を集団として捉えることを基本としてきた。だが正面から相手を認識しさえすれば、例えば相手を殺そうとも思わないのでは無いか。ユダヤ人でもあるレヴィナス。ホロコーストを意識して集団としてのユダヤ人を殺害するという考え方を個の人間一人一人を認識できれば回避できたのではないかと考え、あるいは衝動的に恋人を殺害しようとしたとき、改めて相手を見つめることで相手を殺すことをためらうのではないか、という話であればその彼の考え方はうなずける。しかしもちろんそれは一面的な話でしかない。
ゴダールがそのレヴィナスの考え方を否定し、焦点をあてる相手が第三者と対話するその背中こそ、リアルであると考えた。その方が集団の中の一人、という意識の上で確かにリアルである。つまり自分が注目したい相手が常に自分を見てくれているわけではない、という意味なのだが、これは赤ちゃんは自分におっぱいをくれる母親は自分だけのものではなく、母親の背中の向こうに交わる父親の姿を見てしまう必然が伴われる。
このエディプス(オイディプス)コンプレックスにおける母親のように、焦点をあてたい相手が常に第三者に奪われたくない存在ばかりでは無いからこそ、本講座の主題である『アンチ・オイディプス』というタイトルに落ち着いた、という私の解釈が的外れでないのであればこの講座はとても興味深かった。
講座後、講師との懇親会が開かれた。廣瀬さんが「アウア・ミュージック」の中でセルビア人とクロアチア人の対話に加わっていたネイティブアメリカンらしき人物がどういう象徴だったのか、単純に抑圧されてきた民族の象徴として認識するのはありだが、それ以外の考え方はできないか、と話題を提供したのに噛み合わない参加者との会話がまさに流れと断絶を象徴するようでこれもまた興味深かった。
私は時間が無く途中で離席したのだが、ネイティブアメリカンは確かに抑圧されてきた民族ではあるが、抑圧した移民よりも成熟した精神を持ち、実際は移民よりも高位の存在として認識している。つまり、抑圧されてきたようでいながら自在に生きるまさに荒野の哲学者たちという印象もあり、加えて自然を征服しようとするヨーロッパの思想とは一線を画すより東洋的なあるいは自然そのものの象徴のようにも見え、東洋人よりもふさわしい完全な第三者としての位置付けで存在したのかもとも思えるが仮にその登場人物がネイティブアメリカンだとしても私はネイティブアメリカンの歴史や現在の姿にも疎いし、そもそもがアウア・ミュージックを観ていないのだからこれ以上何かを言えた立場では無い。

仕事やビジネス以外の純粋(?)な知的刺激の場は大学以来で、とても楽しかった。

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コメント

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