人の痛み。
衝動的ではなく、冷静に人を刺す人の話を聞くと、「どうしてそんなことができるのだろう?」と不思議に思う。
刃物を人の肉に刺す感触を想像するだけでもゾッとする。だって、とても痛そうじゃないか。
「人の痛み」をどれだけわかるか。人に共感できるか。
インターネット上の掲示板やメールで人の悪口を言えるのは、相手の顔が見えないからだと思う。
ブログを炎上させるにはさらに集団の暴力性もある。
インターネット上の暴力はまさに相手の顔が見えないことが痛みを認識できない一因であり、悪ノリがそれを助長させているのだろうと想像できる(反省しろ、俺)。
「だれでも良かった」という人殺しは人の痛みを理解できなくなってしまった人なのだろう。
殺される人の痛み。殺された人の家族や友人の痛み。殺した自分の家族の痛み。殺した自分の友人の痛み。「友人もいない。恋人もいない。家族はいないのと同じ」そう言い切ってしまう人々は自らの救済を求めるが、生き場もなく、センセーショナルな何かをして、自分を見てもらおうとする。彼らは自分の痛みでいっぱいになってしまったのではないか。
宮崎勤は人生を通じ、何度、「ありがとう」と言ったのか。ふとそう感じたのは新聞に載っていた当時の取り調べ担当者が、外の空気を吸わせてやろうと窓を開けたら、空気をいっぱいに吸ったあと、宮崎勤が「ありがとうございます」と笑顔で言ったという話を読んだからだ。
池波正太郎の小説で剣の才が優れた身分の低い男が疎まれ続けた結果、仕える家の人々を虐殺し、秋山小兵衛に殺される、という悲劇がある。一度は小兵衛に救われたのだが、遅すぎた。
犯罪は基本的に被害者が居て加害者が居る。加害者に同情しすぎるとふと被害者のことを思い、はっとなる。
既に起きた凶悪な犯罪で大切なのは遺族のケアであり、加害者を反省させることだろう。反省とは人の痛みを理解させることから恐らく始まる。しかし、それまで持っていたものの大半を失ってしまった加害者は自分の痛みでいっぱいだろうし、他人の痛みを理解させるのは大変なことだろう。
また、いかに犯罪を減らすか。その問いに対して一番大切なのは、相手の痛みを認識する力を持たせることではないか。それは恐らく、「ありがとう」とたくさん言える環境ではないかと思う。
死刑に反対か、と言われると、私はかなり安易な人間なので、「死んじまえ、こんな奴」とかよく思う。しかし死ぬにしても、誰にも共感できずに死ぬのと、反省をして死ぬのではその死に大きな差があると思う。
世論も基本的に安易なので、異常な犯罪が起きると、その犯罪者の異常性ばかりを問い、いかに加害者が、自分たちと違う人間であるかを論じて安心する。しかし異常という意味では、「ありがとう」という言葉をあまり日常で、本心から言わなくなった今の世の中を問うべきではないかと思ったりもする。
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コメント
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ちょっとでも怪我したら「痛み」なんてわかるだろうに…
わからないのかなぁ…
被害者もさることながら、周囲の人たちがホントに気の毒になります。
…Blogの炎上は面白がって見ていた事もあるので、チト反省…
投稿: たこすけ | 2008-06-19 09:43
わかんないんでしょうね。たぶん。
肉体的に傷つくことも傷つけることもなく成長してしまった人も多いんじゃないかな、と思う日々です。
・・・その点は私も同じくです。
投稿: sheep | 2008-06-19 23:00