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2006-04-04

sheep氏は愛の国について考えている。

現実の愛については考えない事にする。シンボライズが難しいからだ。 しかし根本的な問題がある。私は恋愛だけをテーマとしたドラマ、小説、映画、マンガことごとくが嫌いである。ひねているので、それにプラス何かがないと触れたくない。 愛についてまず思い出すのは、大江健三郎の小説なのはインテリぶるスノッブだからかもしれないがわかりやすい愛の形だからである。 大学の助教授が人を蹴落とす生活に倦み、路地裏の同性愛者と身分を偽りながら愛を育み、相手の死の後に、彼は自らを捨て路地裏生活者として愛をひさぐようになっていくという話が好きである。わかりやすい。あれもまた愛の国だろう。

夢幻抱影というアリスソフトのアダルトゲームがある。若き大富豪が不治の病にかかり、美しき女性たちに囲まれながらいかに死んでいくかを描いたゲームだが、やはり大切なのは愛である。妻、2人のメイド、歌手、確か悪魔。そんな女性に対し男がどう接するか。自暴自棄になって迫害すればそれなりのオチしかない。なかなかに趣きのあるゲームだった。 ハーラン・エリスン『世界の中心で愛を叫んだけもの』 「俺は世界中のみんなを愛している」と死ぬ間際に叫んだ死刑囚は確かに愛の国の中心にいたのだろう。完全なる愛の世界。完全なるカラオケ店員。

浦沢直樹『モンスター』の医師テンマが行ったヨハンに対するオペもまた、愛ゆえの行為だと思う。

ここで「愛」というもののこの場における定義を考えなおしてみたい。愛は恋愛を指すのか、自他を赦し、包み混む広義の愛を指すのか。これはどこかで聞いた奉仕の概念のようなものだ。自己に奉仕し、知り合うものに奉仕し、社会に奉仕する。恋愛は知り合いに対する愛であり、広い愛は社会への愛だ。この社会というものも曲者で、人を指すのか、生命全体なのかで、また変わって来る。 他者を認め、いかなる罪も赦し、自他を包む心を仮に愛といい、仮にそれが包むフィールドを愛の国というなら、愛に満ちた人が1人でもいればそこは愛の国である。そして愛の国に行きたければ、その人とともに居る事で、いつでも愛の国にたどり着くことができるだろう。 ふと面白いと自分が思うのは、この発想の先には生命としての本能を否定する世界がありそうである。生き長らえ、自己の血を繁殖させるのが生命の目的だとすれば無限の愛は邪魔でしかないだろう。 一転して愛が恋愛だとすると、仮に同性愛だとしても、繁殖を目的とした性欲を根底にする意思として理解することができる。たとえそこに性行為がなくとも、それは性欲を理性で否定した結果だと思う。 一括りにする乱暴なやり方をすれば、利己的な愛なのか、利他的な愛なのかで、愛の形が明確に分離される。恋愛はどこまでも利己的なものといえるし、乱暴に定義すれば、その根底には本能や感情や欲望が不随しているといえよう。逆に利他的な愛は理性から発生するものと考えられるし、実に人間的ともいえるし、自然の摂理に反した考えであるともいえるだろう。 愛の国がもしも恋愛を起点とするのであれば、それは利己主義の象徴といえ、非常に鬱陶しく不快な国のような気がしてならない。 しかし、利他的な愛の国といえのもなんだかうさん臭い。

どこまでもどこまでも否定的になってしまうわけだが、理想は理想として神棚に飾っておいて、私はいつまでも愛と怒りと憎しみと悲しみと喜びに満ちた現実という世界に住み続けるべきなのだろう。

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コメント

プシュゥゥウ~~~~

訪れたトコには、
極力足跡を残すように心がけているのですが、
ワタクシのハト並みの小さな脳みそには、
難しすぎます…

愛…
愛、それは~
う~む、
宝塚のマリーアントワネットの節しか思い浮かばない…

愛ってなんだろ?

本当にいつもありがとうございます。
たこすけさんの足跡に私は愛を感じてます。

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